日本司法の逆説
最高裁事務総局の「裁判しない裁判官」たち

日本司法の逆説 最高裁事務総局の「裁判しない裁判官」たち

2005年、五月書房、276頁 

最高裁事務総局にメスを入れ、国民と乖離する裁判所の実態と問題点を摘出。司法国家のあり方を展望する。

一般にはあまり知られていない最高裁事務総局にメスを入れた問題提起の書!
「出世する裁判官」と「出世しない裁判官」になぜ分かれるのか?
最高裁事務総局が日本の司法をいかに支配しているか、
その実態をいま明らかにする。
国民と乖離する裁判所の問題点を摘出し、
21世紀司法国家のあり方を展望する。

目次

第1章 民事裁判の被告として
第2章 司法小国ニッポン
第3章 「裁判しない裁判官」たちが支配する日本の司法
第4章 司法行政官庁としての最高裁
第5章 司法官僚制強化の歴史的経緯
第6章 最高裁事務総局による裁判統制
第7章 最高裁事務総局による裁判官統制
第8章 法曹一元性・陪審制の実現を

書評 #5-1:評者・永尾俊彦『週刊金曜日』2005年8月5日号「きんようぶんか 読書」欄

書評 #5-2:評者・奥平康弘『図書新聞』2005年9月10日号

書評 #5-3:評者・稲垣秀隆「裁判所を人事システムで読む」『QUEST』第38号(2005年10月)84-85頁

稲垣秀隆「裁判所を人事システムで読む~新刊案内・西川伸一『日本司法の逆説 最高裁事務総局の「裁判しない裁判官」たち』(五月書房、2005年)」*『QUEST』No.38(2005年10月)84-85頁掲載
 私たちは、形式的で融通のきかない様を揶揄して、「お役所仕事」という。著者はこれまでの研究で、「お役所仕事」すなわち官僚制における問題を鋭く指摘してきた。その著者が図らずも裁判にかけられ、三権の一翼を担う司法の場において、その問題に直面する。それは「次第に私の怒りは…裁判所に向けられていった。なぜこうも官僚的でわからずやなのか。この暗澹たる思いが、本書執筆の原動力」(20頁)となる。
 「これは裁判官個々の人間性というより、最高裁を頂点とする裁判所のシステムに問題があるからだろう。そしてその元凶には、最高裁事務総局に勤務する司法官僚による内部統制があるのではないか」(24頁)と著者は指摘する。「裁判しない」裁判官と、上ばかり見る「ヒラメ」裁判官の養成。これが本書で指摘される日本司法行政の「逆説」の要点である。
 本書は、多様な人事データなどを駆使し、その日本司法の逆説を論証したものである。特に図表3-1~13は、実証的な行政研究の第一線で活躍する著者の、面目躍如たる重要な資料=証拠といえるだろう。
 第2章「司法小国ニッポン」では、裁判所の極度の人数不足、弁護士ゼロワン地域、少ない裁判所予算、勤務評定に縛られる多忙な裁判官たちの実態から、「司法小国ニッポン」の有り様が示される。「解決策は裁判官の増員しかない」(42-43頁)のに、なぜそうならないのか。
 そこで、人事、予算などの司法行政に携わる裁判官たちの実態が第3章「「裁判しない裁判官」たちが支配する日本の司法」で示される。裁判所の組織人事制度を詳細に検討することで、本書は「在学中に司法試験に合格した優秀な若者が、任官後は司法行政畑を主に歩いて、最高裁判事へと駆け上がるエリートコース」(56頁)を暴く。また事務総局への「陸上勤務」組の一方で、「支部支部(渋々)と、支部から支部へ支部めぐり、支部(四部)の虫にも五分の魂」(87頁)と詠む「ヒラ」裁判官、つまり「遠洋航海」組の裁判官たちの深刻さも問題となる。
 第4章「司法行政官庁としての最高裁」では、最高裁事務総局が、最高裁裁判官会議を代行する形で司法官僚統制の強化を図る実態が明らかとなり、第5章「司法官僚制強化の歴史的経緯」ではその歴史的経緯が示される。それは「見ざる、言わざる、聞かざる」自己規制と萎縮の空気に加え、「マニュアル」による「考えざる」判決製造機械としての裁判官を生み出していった。この司法行政統制はなぜ問題か。それは、「行政作用が「生理」として要求する機能的処理は、本来的に司法権の独立とは相容れない。それゆえ、司法行政の担当者に、行政の論理を徹底する必要が生じたとき、司法権の独立は容易に浸食されてしまう。そして、裁判官は独立の主体から上意下達の事務処理者に、判決は司法作用から行政処分へと転化する」(144頁)からである。
 この行政の論理が司法独立を飲み込んでいる実態が、第6章「最高裁事務局による裁判統制」で示され、実質的に判決に縛りをかける「事務総局見解」や、裁判官の検事出向である「判検交流」などによる裁判統制のシステムが明らかになる。司法権と行政権が癒着するのならば、日本の三権分立は虚構といわざるを得ない。さらに任地と昇給による縛りや、司法修習生・新任判事補に対する「逆肩たたき」「リクルート」が、裁判官の独立性を剥ぎ取っていく様子が第7章「最高裁事務総局による裁判官統制」で明らかとなる。
 著者は、「現行のキャリア・システムは、裁判を判事補教育の犠牲にして、徒弟制的に判事補を一人前の判事へと養成するものだ。これは論理必然的に「裁判官の独立」と相容れない」(218頁)ことを指摘する。判事補は、判事になる前のいわば「見習い」裁判官だ。そして、「論理矛盾の判事補制度は廃止し、法曹一元制の下、豊富な実務経験のある法曹のなかから裁判官を調達するシステムに改められるべきであろう」(218頁)と述べる。第8章「法曹一元制・陪審制の実現を」において、その日本司法行政の改革が訴えられる。法曹一元制とは、裁判官の任用資格(つまり、給源)として、『弁護士』または『弁護士を中心とする他の法律家』としての職務経験をもつことを要求するシステムである。そして、現実的な当面の改良として陪審制が「法曹一元制とともに車の両輪をなす」(232頁)。それは「本来の陪審制は冤罪の抑止にとどまらず、市民にとっての民主主義の血肉化という点で深遠な射程を有している」(240頁)のである。
 本書が志向する21世紀司法国家とは何か。それは、「行政指導に代表される不透明な裁量権のあり方の駆逐と、明確な「法による行政」の確立」(4頁)に基づく、司法がその独立権を確保し、国民的基盤を持つ国家である。それは、個人に立脚した公共意識・民主主義の確立をも意味する。
 著者は、今日の司法制度改革を「ミニマム」とし、「対象事件の拡大、民事事件への適応、さらには陪審制への移行を図る」(246 頁)ことで、「ヒラメ裁判官」の行き場を失わせ、事務総局を頂点とする司法官僚統制の打破を訴える。

書評 #5-4:『法学セミナー』2006年1月号「新刊ガイド欄」

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